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イリディウム ジャズクラブ(隣はミュージカルのマンマ・ミア)
 
店内は和気あいあいの雰囲気
 
89歳とは思えぬレス・ポール氏
 
左肩下がりの独特のスタイル
 
バードランド ジャズハウス
 
店内は結構広い
 
シンガーズ・アンリミッティッドのデビューアルバム「イン・チューン」
 
オスカー・ピーターソン氏
 
NYNY4
 
ブルーノート ジャズクラブ
 
ライブ ポスター
 
わざわざ窓を下ろしてくれたアーロン・ネヴィル氏
 
MUSICX
 


         § ジャズ・ジャズ・ジャズ §


ニューヨークにあまたあるジャズ・スポット。住んでいるアパートメントはミッドタウンの喧騒の中だけれど、ジャズ・ライブハウスが歩ける距離にあるというのは非常にうれしい。で、夜な夜な、出かけることになる。

中でもとりわけ素晴らしかったライブを3つ。

まず、ブロードウェイ51丁目にある「イリディウム」。ここでは毎週月曜日に、レス・ポールのライブが行われている。

レス・ポール、1952年に発売されたギブソン社製のエレクトリック・ギターの名前にもなったという、伝説のギタリストである。ジミー・ペイジ、エディ・ヴァン・ヘイレン、B.B.キング、ジェフ・ベックなどあらゆる一流ギタリストに多大な影響を与えたというから、凄い人に違いない。“エレクトリック・ギターの魔術師”と呼ばれるそのテクニックを聴きに訪ねてみた。

実はひとつ楽しみがあった。このレス・ポールのライブ、毎回ゲストが登場するのだが誰が来るかは事前には公表されず、当日始まってからのお楽しみなのだ。過去にはポ−ル・マッカートニーキース・リチャ−ズ、ジョージ・ベンソンといった超有名人が共演したというから、我が敬愛するエリック・クラプトンが現れるのもあながち夢ではないかもと密かに期待していた。

レス・ポールという御仁、1915年生まれというから御年89歳を数えるはずである。しかし、若い。手先を使うことはボケ防止に繋がるという説に納得してしまいそうなほど、早いピッキングの奏法は素晴らしい。ギター3本、ウッドベースにピアノというドラムレスの構成であったが、ちゃんとスウィングする。当たり前か、プロなのだ。

地下にある、そう広くはないライブ・ハウスということで、レス・ポールご本人も非常に寛いだ雰囲気、演奏では若いギタリストにアドリブをふっかけ、もっともっとと要求されるフレーズにギタリストは懸命である。それをからかい気味に、しかし合いの手はしっかりと入れて、大御所が後世のミュージシャンを育てる現場を目の当たりにしたという思いであった。

かぶりつきで食い入るように見ていた少年を舞台に呼び上げ、気さくに話し掛ける。

『何才?』
『12歳』
『ギターは弾くの?』
『5歳から弾いてる』
『ギターは何を持ってる?』
『レス・ポール』
『じゃ、今度はギターを持っておいで。共演しよう』

てなぐあいで、観客をひきつけるお茶目なお爺さんであった。

「オールオブデイ」「ブラジル」「ビギンザビギン」「テネシーワルツ」などをじっくりと楽しませていただいた。その日のゲストは残念なことに、エリック・クラプトンではなかったけれど…。

素晴らしかったライブ、二つ目はオスカー・ピーターソンである。

私がオスカー・ピーターソンと出会ったのは遥か昔、まだ小学校へ上がる前である。針仕事をする母の傍らでお絵かきなどをして過ごしながら、母が聴くラジオを聴くともなく聴いていた。それもいつも決まってラジオ関西。そのラジオ関西の放送の合間に、テーマミュージックとして流れていたのがオスカー・ピーターソンの「キャサリン」という曲であった。

もちろん4、5歳のその頃、その曲が誰のどういう曲かということなど全く知らなかったのであるが、それがかの有名なジャズピアニストの手によるものだと知ったのは二十歳を過ぎてからである。

学生時代、友人から1枚のLPレコードをもらった。それは友人が力説したように素晴らしい出来で、シンガーズ・アンリミティッドというコーラスグループのデビュー版であった。そしてそのバックを務めていたのがオスカー・ピーターソン・トリオ。そこで初めて、小さい頃に耳にしていたラジオ関西の曲が「キャサリン」という曲だったと認識したのである。

さて、8番街44丁目にある「バードランド」で行われたコンサート。今夜はドラムレスではなくカルテットである。

1925年カナダのモントリオールで生まれたというオスカー・ピーターソン氏、今年で御年79歳である。実は彼は1993年に脳溢血で倒れ、第一線を退いている。だから、両手のユニゾンで鬼気迫る勢いで繰り出す彼のフレイズを、生の演奏で聴けたことは誠にラッキーであった。そして忘れられない展開がコンサート終了後に待っていたのである。

「鍵盤の皇帝」と異名をとるその燻し銀のような演奏に堪能し、店を出た。と、そこに黒塗りのハイヤーが停まっていた。ナンバープレートを見てピンと来た。

「NYNY−4」なんていうお洒落で目立つナンバーを付けるのは、決してマフィアではあるまい。それならミュージシャンに違いない。

そう思ってお店の脇にある通用口で待つ事30分、オスカー・ピ−ターソン氏が車椅子に押されて出てきたのである。

ちょうど同じように期待して待っていた観光客と思しき青年が近づき声をかける。ガードマンがいるわけでもなく、制止する係員がいるでもなく、気さくに言葉を交わし、快くサインをしてくれる。私は感激のあまり貧困なボキャブラリーを駆使して彼の今夜の演奏を賛美し、そして温かい握手と共に一緒に写真に収まった。シャッター係はハイヤーの運転手のおっさんに頼んだ。

気取らず奢らずニコニコとファンのリクエストに応える。年を経て病気を乗り越えて、好きなジャズをやっていることの喜びをひしひしと感じているようなその夜のオスカー・ピーターソン氏であった。

おそらく最初で最後の彼との邂逅であろう。道行く人は誰も車に乗り込むのに難儀している老人をオスカー・ピーターソンだとは気付いてはいまい。走り去るハイヤーに向けて小さく手を振ると、スモークガラスをわざわざ下げて微笑んでくれた。つい先ほど、店に溢れる聴衆を熱気と迫力で魅了させたとは信じられない程、穏やかな笑顔のお爺さんであった。

車のナンバープレートを見て通用口で期待して待っていたらスターに出会えた――という幸運はもうひとつある。

忘れ得ぬライブ3つ目はアーロン・ネヴィルである。

1941年ニューオリンズ生まれ。60年にソロ・シンガーとしてデビューして以来、ソロ活動の傍ら77年からは兄たちと共にネヴィル・ブラザースとしても活躍している。ヴァイブレーションを効かせた甘い歌声が特徴で、89年にはリンダ・ロンシュタットと共にグラミー最優秀デュオ賞を受賞した。

ベルベット・ボイスと呼ばれる彼の歌声は、同じように呼ばれたナット・キング・コールのそれとは少し違っている。

ナット・キング・コールが発音の美しい抱擁力のある歌声であるのに対して、アーロン・ネヴィルはヨーデル唱法と呼ばれるようにコロコロとこぶしを効かせる。R&Bというジャンルにとらわれず、カントリーであったりジャズであったり、好きな歌は何でも歌うという姿勢が大好きだ。

話はちと逸れるが、ナット・キング・コールとオスカー・ピーターソンは友人であったらしい。シンガーとして有名なナット・キング・コールはかつてピアニストとしても活躍していたそうで、当時ピアノを演奏して歌うという同じスタイルのオスカー・ピーターソンと個人的な契約を交わしたそうである。

「僕ら、ピアノ弾いて歌唄うて同じスタイルやんか。仕事場の喰い合いでこの先厳しいで」

「そやな、ほんなら僕は君より声ええから歌でいくわ。君はピアノ頑張りいや」

というやり取りがあったかどうかは知らないが、その後オスカーはピアニストで「皇帝」となり、ナットはシンガーとして名声を得ることになったという、嘘か真か解らぬような流言があるそうだ。

日本でいうと昔YMOだかTMNだかいうグループで人気が出た若者がふたり、

「これから僕たちマーケットライバルになっちゃうよ。君はジュリーに似てていつまでも亜流って言われちゃいそうだから、表舞台には出ないほうがいいんじゃないのかなァー。裏で創作活動しちゃったりなんかしたらどうかと思ってさァー

「そーネ、君はギャルにモテそうなスタイルだしその線で行く?僕はなんたってトーゲー出身だし作曲でやっていこうかナ」

と、これまたかようなやりとりがあったかどうかは解らぬが、その後小室君はクネクネと身体をくねらせて「平成の平尾正晃」と異名をとるほど有名になり、坂本君は映画音楽を作曲してアカデミー賞まで獲ってしまったなんていう、更に嘘か真か解らぬような話に似てなくもない。

話を戻す。アーロン・ネヴィルである。

6番街3ストリートにある「ブルー・ノート」で行われたコンサート。その日は大雪が積もった冬の日であった。瀬戸内温暖気候で育った身ゆえ、雪はロマンティックという先入観を持っていたのだが、そんな甘い考えを一冬で覆してしまうほどの汚い雪道を踏みしめて「ブルー・ノート」へたどり着いた。

道中難儀して来た甲斐あって、コンサートは素晴らしかった。この日はジャズハウスで開かれたコンサートらしく、全曲スタンダードなジャズソングで構成されていた。私の大好きな「ダニー・ボーイ」「ザ・シャドウ・オブ・ユア・スマイル」なんて真に感動モノであった。

因みに私の陣取った席は手を伸ばせば届きそうなかぶりつき、彼のコロンの匂いを嗅ぎながら、鼻の穴を見上げてその熱唱に聴き入った。指にはすげえデカいカラットのダイヤモンド指輪、重そうな金のブレスレットと重ねた時計はこれまた金張りのロレックスであった。

そしてお年のせいか両耳には補聴器。その色がいわゆる「肌色」で、黒人のそれは日本人の黄色ではないところに妙に感動を覚えてしまった。そして、ここでもまた劇的な展開がコンサート終了後に待っていたのである。

店を出るとそこに、これもまた黒塗りハイヤーが停まっていた。プレートナンバーはなんと「MUSICX」。モロである。

そして雪の降りしきる零下の世界で待つ事30分、アーロン・ネヴィル氏が出てきた。こちらは結構ファンも居たし、ハイヤーの運転手のおっさんが警備を兼ねて近づくファンを制止していた。 凍えながらせっかく待ったのだしせめて写真だけでもとカメラを構えたが、かじかんだ指におまけに分厚い手袋をはめた手でうまくシャッターが押せなかった。もたもたしている間にネヴィル氏は車に乗り込んでしまった。

『あぁ〜…』と非常に残念な顔をしていると目の前のスモークガラスがするすると下りて、彼はわざわざ私のほうに視線をくださったのである。有難く写真を撮らせていただいた。

温かい歌を唄えるシンガーは、やはり心も温かい。


 

 

 

 

 

 

 

 

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