「母の背に」あとがきに代えて

我が家には猫のぬいぐるみ「しまちゃん」がいます。
私が中学2年の時、夏休みの家庭科の自由課題で作ったものです。母が仕立てた洋服の残り布で作ったその「しまちゃん」は、夏休み後の作品評価でなんと金賞に輝きました。当時家庭科の実技がとても苦手だった私は、出る宿題のほとんどを母に頼っていました。パジャマ製作、スカートのファスナー付け、家に持ち帰り癇癪を起こしながらも一向に進まぬ作業を、母は気長に傍らで教えてくれました。

白いハンカチを碁盤の目に区切って、その中に16種類の刺繍見本を作るという宿題がありました。サテンステッチ、レゼーデージーステッチ、フレンチナッツステッチなど、一針の位置がずれると形にならない。「根気」という言葉とはまったく無縁だった私はとうとう腹をたてて、不細工な作品を途中で投げ出して眠ってしまいました。

それでも課題提出の期限に後ろめたさを覚えながら翌朝目覚めると、きれいに仕上がった作品が糊付けアイロンまでかけて出来上がっていました。母が明け方近くまでかかって作りあげてくれたものでした。もちろん学校では絶大な評価を得ましたが、大体普段の私を知っている皆には、先生にも友達にもすべてお見通しだったと思います。なのに懲りもせず、大人になるまで裁縫一般手先の作業は母に頼りっぱなしでした。

そういう成長過程でしたから、唯一自分で作った、唯一母が褒めてくれた「しまちゃん」は何となく捨てがたく、色褪せてしまった今も部屋の片隅におります。愛猫ビンクスが時々パンチをくれるので、一度取れたシッポがまた縫い目3つでぶら下がっています。

 

 

母が58歳の時に、いわゆるガンになりました。腫瘍が出来たのは上顎でした。抜いた奥歯のあとがいつまでも治らないということで大きな病院を訪ねて判ったものでした。私はちょうど結婚してから10年目、夫の東京転勤から地元関西へと家族で戻った年でした。ですから心細げな母に最初から付き添って病院へ通うことが出来ました。ただ、母を励ますどころか、オロオロと取り乱す私は逆に母から『あんた、しっかりし!』と励まされておりました。今思うと、なんと頼りない娘であったことかと思います。

母が受診していた科が口腔外科でしたのでどこの病院にもあるというものではなく、大学病院へ通いました。大学病院にはその性質上、「医療の進歩と発展の為に患者さんのご協力をお願いします」というスローガンが、玄関に大きく掲げてあります。

最新の治験薬が試してもらえる一方、患者の持つ病巣はひとつの実験体ですから、大勢の医者の目に晒されます。上は教授から助教授、講師、助手、そして医学生、看護見習い生に至るまで次から次へと診察という名のもとに覗き込んでいかれます。

そういう臨床経験なくしては医者が育っていかないのは充分理解できますが、患者の本音を言うと、いちばん偉い先生に最新の治療をしていただいて、さっさと病院を後にしたいということに尽きます。しかし実際は、予約制にも拘らず、待合室は患者で溢れ、2時間待ちもよくあることですし、しかも大学病院ゆえに患者も重症の者が多い。それぞれの生活背景を持つ様々な人たちが重い病気を抱えて集まる待合室というのは、何とも言えぬ重苦しい雰囲気が漂います。

そんな中大勢の先生方や看護婦さんにお世話になりました。

ただ、自身の時間を割いてでも相談に応じてくださる心篤い先生がいらっしゃる一方、中には何を勘違いしているのか、患者という人間をただの病巣としか見てはいず、診察室には不似合いな軽口を叩きながら臨む方もいらっしゃいます。

もちろん「勉強する医者はいなくなるはずです。

毎日相手にしているのがスライドガラスに貼り付けられた病理見本ではないこと、大勢の医者と患者が一体となって戦おうとしている病巣を持っているのは、喜怒哀楽を感じる心を持った「人」であること、そういう不用意な発言が患者を不安にさせがよくできたから」ということも医者になる理由としては大きな要素ですが、「人の病気を治したいという熱い思いに駆られて」というのが医者を目指した第一義に考えられる医者が多くあるべきだと思います。そうすれば居並ぶ診察台の上に不安な表情で診察を待つ患者の傍らで『日曜日のゴルフの予約が取れなくてさあ』などという無神経な発言をする医者はいなくなるはずです。

毎日相手にしているのがスライドガラスに貼り付けられた病理見本ではないこと、大勢の医者と患者が一体となって戦おうとしている病巣を持っているのは、喜怒哀楽を感じる心を持った「人」であること、そういう不用意な発言が患者を不安にさせるばかりか、真摯に臨む他の先生たちへの患者の信頼感までをも揺るがすことになるということを、まず臨床に出る前に学んできてほしいと強く思いました。

 

 

検査検査で廻される様々な大病院で受ける、そんな気持ちの鬱憤や辛さを病院帰りに晴らすべく、食べ歩きやらショッピングやらとたくさんの時間を母と過ごしました。手術が回を重ね、食べ物が食べづらくなっても、食べやすいもの、食べやすい場所を探して母と私の憂さ晴らしは続きました。

母はどこか豪胆なところがあって、ちょっと入り辛いような高級レストランや料亭へも平気な顔をして「一見さん」で入っていきます。断られることは皆無でこころよくもてなしてもらえますが、そういうことに不慣れな私は最初のころは母の『行くで』という掛け声に及び腰でついていっておりました。今では母から伝授された豪胆さに自身の性格の厚かましさが加わって、どこへでも行けそうな気がしますが、残念なことに経済的理由がそうはさせてくれません。いつか母と行った京都高台寺の料亭をもういちど訪ねてみたいものだと思っています。

病院が神戸から京都に替わり、通院時間は長くなりました。幸い車の運転は好きでしたので、ドアツードアで母には少しでも楽をさせてやれたかと思います。ただ、その私の留守に娘がいちばんしんどい目をしたかもしれません。

娘は当時小学1年生になったばかり。新入生は普通、午前中の学校生活を終えて、お昼ご飯は家に帰ってからという生活スケジュールでした。しかしちょうど新入学のその頃、私は母の放射線治療に毎日通っておりましたので、学校の先生にお願いし、娘は授業が終わると兄の教室で一緒に給食を戴いて、6時間目までの午後の授業を傍らでお絵かきをしながら過ごし、兄と一緒に下校するということにしていただきました。

4年生のクラスのお兄さんやお姉さんたちが娘を実の妹のように可愛がってくださり、妹は人よりも早く学校に馴染めたようです。しかしその反面、学校での出来事をおかあさんと一緒に話しながらお昼ご飯を食べるという時期を持てませんでしたし、そしてそれから10年という年月を、私は母の病気を気にして過ごしておりましたので、娘には可哀想なことをしたと思っています。祖母が亡くなったあと、いじめから不登校、引き篭もりへと娘が入っていったことも、この長年の精神的な母親不在が影響しているのかもしれません。

 

 

その頃たくさんの手芸品を作りました。
母の手術を施した場所が上顎でしたので、やはり頬から首筋にかけては傷が残りました。首元を隠すマフラーを編み、抗がん剤で髪が抜け落ちた頭をなんとかおしゃれに装えるように、いろいろなタイプの帽子も編みました。

頬の傷を隠すために母はマスクをつけておりましたが、市販のマスクは白いガーゼのものしかなくどうしても目立つので、遠目には目立たない、洋服のおしゃれも出来る肌色のマスクを作りました。

柔らかい肌色の生地を探して、型紙を作り、切り込みを入れながら、自分の顔にあてて程よい立体型に仕上げました。ただ第1号は「鼻ベチャ」の私自身の顔を土台に作りましたので母には立体度が浅く、改良2号でようやく母の顔に馴染みました。洗い替えにと3枚作ったその肌色マスクを母は色褪せるまで使っておりました。

入院時、手術の為にうまく食べ物を飲み込むことが出来ません。どうしてもこぼれることが多く、その都度汚れたパジャマを替えるのは一苦労です。そこで赤ちゃんの食べこぼし用エプロンからヒントを得て、大人用の食べこぼし対応前掛けを作りました。

厚め大判タオルの端を折り返して食べこぼし用のポケットを作り、反対側を首の太さにくり抜いてマジックテープで止めるようにする。これだと食べこぼした物はポケットに収まり、飲みこぼした汁はタオル自体が吸い取ってくれます。パジャマも汚さず洗濯も簡単。気分がなるべく明るくなるように派手な色柄のタオルを選びました。

しかしこれも母の首周りが思ったよりも細く、改良を加えなければなりませんでした。健康に太った私の首とは違い、病気でやせ細ったうえに手術でリンパをえぐられた母の首の細さを、くり抜いたタオルの穴の大きさに見た時の気持ちは今も忘れることが出来ません。

出かける度に『目、鼻、耳、口、全部バッグに入れていかなあかん』と母が笑っていたように、母のバッグは老眼鏡、補聴器、マスク、口蓋への術後補正器具などでいっぱいでした。それらを収納する巾着袋も数多く作りました。

実は母は年令に似合わずかわいい雑貨が好きで、なかでもサンリオグッズの隠れファンでした。孫娘をダシにサンリオショップへ行っては、キティちゃん柄の小物を買ったりしていました。そんな母でしたから、思いっきりかわいい柄の巾着袋、大変喜んで、自分で使う以外に友人にも配っておりました。

中学から長じるまで母にお世話になりっぱなしのお裁縫。機会は母の病気という悲しいものでしたが、母が喜ぶ顔を見たさに、そして母に褒めてもらいたくていろいろな物を作りつづけました。今ではその楽しさが解り、KUMYKO’Zのティーコージーを一所懸命作っておりますが、『お母さんは褒めてくれるかいな』と思いながらミシンを踏んでいます。

 

 

母には3人の弟妹がいます。

長弟は離れて暮らしているため会うのはままなりませんでしたが、母の病床を気遣い、栄養になる食べ物をはじめ寺社のお守りまで送ってくれました。趣味の広いこの叔父は、今回私がホームページに母のことを詠った短歌集を載せたいと相談しましたら、その背景にとたくさんの美しい写真を提供してくれました。花の好きだった母の思い出を飾っているのはほとんどこの叔父の写真です。最後のページに使われた「あじさい地蔵」の写真には『優しい顔が姉さんに重なる』と添え書きがありました。

妹にあたる叔母は、学校の先生を長年務めたこともあってとても明るい人です。母が病を得てからも、月に1度実家で会うたびに笑わせてくれて、随分と気持ちが和らぎました。母の入院した部屋に訪ねて来ては筆談となった母と語りあうのですが、いつまでも母の笑い声が絶えないで幸せな時間でした。その叔母が母の死に目に会えず、駆けつけてきたまま母の亡骸にすがり、『おねえちゃん、おねえちゃん…』と子供のように泣きじゃくっていた姿は今も鮮明に覚えています。いつも明るい叔母の涙を見たのは初めてでした。

末弟にあたる叔父は母と11歳年が離れていることもあって、母の存在はとても大きなものだったようです。19歳で嫁いだ母は、叔父にとって『物心ついた頃には人の妻だった』そうで、人生の先輩としてもよい相談相手だったようです。

私の兄がまだ小さい頃に入院をして、母が付き添わねばならないという事情で、しばらく私は母の実家に預けられたことがあります。その頃この叔父は高校3年生、大学受験勉強の真っ只中でした。3歳の私はそんな家庭の事情や叔父の切羽詰った受験事情など察するはずもなく、ただ母の不在は子供ながら感じていたのでしょうか、手がつけられないほど腕白だったそうです。飼い猫を追いまわしてストレスのあまり家出をさせ、勉強する叔父の頭によじ登っては邪魔ばかりしていたらしい。第一志望の受験失敗もそのせいかも知れませんが、3歳の幼児の頃のこと、記憶にはありませんということで責任逃れをしておきます。

その同じ釜の飯を食った時期があったせいか、この叔父は不細工な姪をその後も気にかけてくれ、年頃になっても休日家でボーッとしている私に『ええ若いモンが休みに家にいてどうする。え?一緒に出かける彼氏がいないって?』と余計なお世話をやきにきてくれました。

「口は悪いがこころはよい」というのが母の母、つまり祖母の、息子であるこの叔父に対する見方ですが、確かに、顔はええが口は悪い。しかし母が入院中はその毒舌で母を笑わせてくれ、母の亡き後は独りぼっちになった父を何度も訪ねてくれ、そしてアメリカに離れて暮らす私には頻繁にメールで様子を伺ってくれて、それに対して鬱憤を吐きつづけることによって母を亡くした悲しみから立ち直らせてくれたのもこの叔父でした。

この叔父の奥さんにあたる叔母もまた母を慕ってくれました。母はこの叔母の作る「おはぎ」が大好きで、いただく度に大きな口を開けてかぶりついておりました。それが小さく切り取って口に運ぶようになり、最後あまり食べられなくなると、それでも叔母はあれやこれやと工夫をした食べ物を届けてくれました。夏の入院でほとんど食欲がなくなった母に、これなら口当たりがいいからと冷たいそうめんを、手作りのつゆに薬味まで添えて、汗を拭き拭き遠い京都の病院まで運んでくれた姿には頭が下がりました。

そんな叔父夫婦、今もお彼岸や母の命日には「おはぎ」持参で母の墓参りをしてくれています。

 

 

母の両親はまだ健在です。今年96になる祖父母は、今は老人ホームに入っています。祖父はまだ足腰もしっかりとして元気ですが、祖母は寝たきりとなっているようです。この年老いた両親を母は随分と気に掛けておりました。

毎月一度、観音寺参りをしておりましたので、その帰りに近くに住む祖父母を訪ねます。母が入院を繰り返すようになってそれが途切れると、祖父母は母の病気を案じます。その都度叔父叔母が、『心配ないから、すぐに退院できるから』と母の様子を説明して祖父母を安心させておりました。しかし最後の入院となった時、高齢の祖父母の精神的な動揺が祖父母自身の健康に影響を及ぼすことを懸念して、祖父母には母の重篤な状態は知らせないでおこうと決めました。

母は最期の時を神戸の病院で迎えました。痛みをコントロールするために受ける点滴で意識は朦朧となります。しかし昏睡状態に入るまでに母はうわ言で『おかあさんに会いたい…』と言いました。

母を担当していた看護婦さんがそれを聞いて私に、『ご両親に会わせてあげたほうがいいと思いますよ。一時は悲しいでしょうが、お年寄りは案外たくましいものですよ。私は経験からたくさんのお年寄りを見ていますが、亡くなってから会われるほうが辛いことですよ』と静かにアドバイスをしてくださいました。それを皆に伝え、祖父母を母と会わせることにしました。

定年後は趣味の畑仕事をしながら、田舎からあまり出たことのない祖父母でした。神戸のその近代的な病院へ叔父が車で連れてきて、そして母の居る病室に入る頃には身も心も悲しみで打ちひしがれているように見えました。そしてすでに昏睡に陥った母の横たわる姿に取りすがりながら『まだぬくい…まだぬくい…』と、母の名前を何度も呼んでおりました。

数日後母が亡くなって、冷たくなった母の亡骸にとりすがって泣きもしましたが、それでも『生きてるうちに会わせてもらってよかった…』と言っておりました。母のすぐ下の弟を3歳の頃に病死させた祖母は、ふたり目の子の死に目に遭ったことになります。これほどの悲しみを祖母はどのように乗り越えてきたのか、そしてまたどのように乗り越えていくのか、10年という長い闘病の日々を泣き言ひとつ言わずに逝った母の強さは、この祖母から受け継いだものなのかもしれません。

 

 

母はまだ元気な頃に、快復の見込みがなくなったら延命治療はしないでと言っておりました。そしてホスピスに入りたいと自分でその病院まで調べておりました。なるべく母の希望は聞き入れてあげようと思っていましたが、それを受け入れる家族の心構えと、母自身の治療をどこで打ち切るかということが非常に難しい問題でした。

母の気持ちを慮って「ガンである」ことは本人には告げていませんでしたが、母は自分で病気のことも調べ上げておりました。いつもあっけらかんとしておりましたが、病気を得てから2度だけ母の涙を見ました。

1度目は最初の手術の後、大きくえぐられて形の変わってしまった自分の横顔を鏡に映し、そっと涙をぬぐっておりました。部屋に入ろうとして垣間見たその様子に声をかけられず、訪れたことに気づかれないようにしばらく外におりました。

2度目は最後の入院の前、家で寝ていた母が正座して私を呼びました。手にはメモを持っていました。伝えたいことは筆談でもらっていました。そこにはこんなことが書いてありました。

『お父さんも○○○○(兄の名)も男で強いから頑張れ頑張れと言います。でも私はもう疲れました。こんなお願いは娘である貴女にしか言えません。最期の時が来たら延命治療はしないでください。そしてホスピスに入れてください。住所はここです。***』と書いてありました。

私がそれを読む間、抗がん剤で髪が抜け落ち、やせ細った姿でじっと座っておりました。私は母の望むことは何でも受け入れようとある程度の覚悟はしていましたが、そう申し出たあと声を押し殺して泣く母の肩を抱いて、一緒にただぽろぽろと泣くしかありませんでした。そのメモをしまおうとした時、母がそれを取り上げて破り捨てました。そんな悲しい内容のメモを私に遺すことを拒んだのでしょう。そこに母の覚悟を見たような気がします。

それから母は一気にしぼんでいきました。病気と闘う気力がなくなると病魔は力を増します。母の希望を叶えるべく、母の示したホスピスも訪ねましたが母の病状では既に遅く、「痛みをコントロールしながら日常の生活を楽しみ、最期の時まで人間らしく生きる」という趣旨のホスピスでの生活を送るには病状が進み過ぎていました。母の希望は叶えられませんでしたが、それだけ母は病気に立ち向かって頑張って来たのだと思うようにしました。

最後に入院した病院の先生に母の意思を話しました。延命治療はしない、痛みは完璧に押さえる。

ただこの痛みを押さえることに使う薬は、呼吸器を停止させてしまう危険性も孕んでいるということでしたが、その危険性を鑑みても痛みを押さえることを優先させて欲しいという家族の申し出に、母を担当してくれた先生はしばらく考え込んでおられたようでした。

その真剣な眼差しと何度も病室に足を運んで母の様子を見てくださる先生の、そのお名前は既に忘れてしまいましたが、その腕にあった大きなケロイドが、彼を医者に成るべく駆り立てた動機であったのかも知れないと考えたことを覚えています。母はこの病院で家族や弟妹や、そして病院の多くの方たちにお世話になって静かな最期を迎えることができました。

家族の中で私はいちばん下でしたので、いつもおちゃらけた存在でした。兄は子供の頃から勉強がよく出来て何事に対しても緻密で器用で、私の性格とは正反対でした。そんな不出来な私でしたから、母と別れなければならない日まで10年という長い年月を、天は私に与え給うたのだと思います。最初から母の病気に付き合い、だれよりも母と長い時間を共に出来たこと、そして幸運なことに母の最期の時をこの手の中で看取れたことに感謝せずにはいられません。

 

 

何事につけても母からは明解な答えが返ってきました。

出産の不安を訴えた私に、返ってきた答えは『世の女が皆出来ることをあんたがやれんでどうする!』というひと言でした。そう言われるとそうです。連綿と続く歴史の源は女たちが産んできた人が作り上げたもの、その歴史の一部の小さな塵のひとつにすぎない私という人間が子を産むことなど、既に自然の摂理の中に組み込まれているのだと思うと腹が据わりました。そして健康だけが取り得のような赤子を、ブツブツとふたりも産んで今日に至ります。

母のこの言葉は皮肉なことに、母自身の死の時にも私を支えてくれました。世の女たちの、しかも全部の女性が必ず出産するというわけではありませんから、その一部しか経験しない出産という一大事業を、私は乗り越えられたのです。ですから、「母」から生まれた世のほとんどすべての人が、「逆縁」という不幸を除けば年の順で経験するであろう「母の死」というものを、乗り越えられぬ道理はないはず。

葬儀の日に娘から『お母さんはおばあちゃんが死んだのになんで泣かへんの』と責められましたが、長い下り坂のどん底は私にとってはもう少し以前にあったように思います。昏睡に入ってから母が天に召されていったことは、母にとってむしろ救いであったと感じました。ですから葬儀の日は比較的静かな気持ちで過ごすことが出来ました。

母を送った神戸市の斎場ではお別れの時に母の顔は見られませんでした。「水(見ず)の別れ」と称して、皆で棺に水をかけてお別れを言います。皆が棺にとりすがって別れを惜しむ、その時間の短縮を図った行政の生み出した方策ではあるのでしょうが、母にはこの別れ方がよかったのかも知れません。皆の思い出の中には美しい顔のままの母が残っているでしょうから。

ガンが何処に出来たらよい悪いということではありませんが、やはり女である母にとって、見えない腹の中ではなく、顔に病を得たということは辛いことだったと思います。父が「その知的美に惚れて結婚した」ほどの美しさでしたから、その頃の母を知るお寺のお坊さんが付けてくださった母の戒名に「美しい顔」を意味する「瑞顔」という字を加えてくださったことに、母が救われた思いがしました。最近母によく似てきたと言われる私に、『絶対似てない。おかあさんはもっときれいやった。』と力説するお父さん、私の不細工な原因が、お父さんのDNAを受け継いだことだということに、気がついてます?

 

 

母の死に際しては、それぞれがそれぞれの立場で悲しみを抱え、自分の思いの中で消化して母の死を納得し、そして立ち直っていくしかありませんでした。母の年老いた両親は老いを労わりあいながら、弟妹たちはそれぞれの家族の元で、そして兄と私もそれぞれの家庭がありましたから、日常の雑事に紛らわせて母の死を冷静に考えることも出来たように思います。

その現実をうまく消化できず、母の死を自分の観念の中に取り入れられなかったのが父でした。母の死後、鬱になり、母を亡くした悲しみと不安と寂しさは父の健康をも蝕み、ついには血を吐き救急車で病院へ運ばれました。極度のストレスがもたらした急性の胃穿孔ということでした。幸い独りで暮らすには心配で、私の家に居りましたから発見が早く、大事には至りませんでしたが、その後、元の明るい父に戻るまでに長い月日を要しました。

父は若い頃からずっと仕事一筋に来た人でした。兄が子供の頃に病気をした時など、難病のために医療費が嵩み、ひと月に入る給料よりも支払う医療費の方が高かったと、思い出話で語られる生活の苦しさは、子供であった私や兄には現実としての実感が湧きませんが、苦楽を共にしてきた父母には私たちが推し量れないほどの連帯感があったのだと思います。定年を間際に控え、さあこれから二人で老後を楽しもうと思った矢先の、母に訪れた不幸でした。

父は、最後の入院のころはずっと母に付き添い、あれやこれやと世話をやいておりました。母と越し来たほぼ50年の月日を省みて、あれもしてやりたかったこうもしてやりたかったと悔やんでおりますが、そんな父にとって、昏睡に入る前に母が残した『お父さんといっしょに死にたい…』という言葉は、今を独りで生きる父にとってのただひとつの拠りどころかもしれません。

先日、脳梗塞で倒れた父を見舞って急遽一時帰国をしました。父が不在の父のマンションに寝泊りしました。

母の最後の入院で、熱の下がらぬ母に付き添って初めて病院に泊まった時、その孤独な夜の長さに心が冷えていきました。そして初めて、母が独り病院で過ごした日々に思い至りました。何故この寂しい夜があることにもっと早く気がついてやれなかったかと、自分の迂闊さに胸をかきむしる思いでした。その時感じた悔恨に似た気持ちを、また父の不在のマンションで味わいました。

昔から頑固な父でした。父が家の頂点で、父が家の法律でした。さすがに黒いカラスを白いとは言いませんでしたが、灰色のネズミを黒いぐらいは言いました。

電話の応対ひとつにも口うるさく、『ご連絡いたします』と応える私が受話器を置くのを待って、『目上の人には「ご連絡いたします」やのうて「ご報告させていただきます」や!』と指摘されておりました。そんな父に、口には出せませんでしたが『うるさい、クソおやじ!』と思ったことは何度もありました。

今ではそう口うるさく言われたことが、ひとつひとつ身についているのが不思議でもあり、感謝もしておりますが、このクソおやじぶりを差し引いても、父の独り暮らしは寂しかろうと思えました。まだしばらくは帰国出来ません。暖かくなったら父をこちらに呼ぼうと思います。数週間でも親孝行の真似事が出来るでしょうか。そして親孝行の真似事が出来るそんな日々が、後どれほど残されているのでしょうか。

 

 

母の思い出を語るにあたり、ここは襟を正して懺悔しておかねばならないことがあります。

兄が子供の頃に病気をしたと述べましたが、その紫斑病という病気は原因も不明で、出血が止まらなくなる難病でした。脾臓を取るという手術も考えられましたが、当時健在だった父方の祖母の猛反対でその手術は取りやめ、完治しないまま家に戻ったそうです。

母はその頃、実家近くの白旗観音寺に、兄の病気快癒の願をかけたそうです。この白旗観音寺というのは、前述の「口の悪い叔父」の「脱腸」を見事治した霊験あらたかな観音様で、その御蔭があったのか兄の病気もそれ以来治ってしまったのでした。それから母は毎月のお礼参りを欠かさず、長じた私も同行するようになり、母の病気に際してもご祈祷を受けたりしました。

何度目かの母の手術の時でしょうか、ちょうど待合室で兄といっしょに手術の終わりを待っておりました。当時単身赴任で神戸から遠く離れたところに住んでいた兄は、母の手術に合わせ、何時間も車を駆って帰ってきておりました。

度重なる再発に母が可哀想で、しかしこの鬱憤をどこへも持っていけず、ついに私は傍にいる兄に当たりはじめました。そして、『おかあさんの病気が治らへんのは兄貴が病気をした時におかあさんが観音さんに願をかけたからや。おかあさんはあの時お母さん自身の命に代えて兄貴を助けてくださいってお願いしてしもたんや!』とひどいことを口走っていました。

兄は何も言わずトイレに立つフリをして席を離れましたが、きっと陰で泣いていたのだと思います。母が願をかけたことは知っていましたし、それが自分の幼い頃の病気によるものですから、浅はかな私が思いつくそんな思いは、とっくに兄自身思い至っていたのだと思います。

何としてでも母を助けてやりたい、しかし何ともしてあげられないというジレンマは、兄ならずとも私自身も感じていた訳で、人の気持ちを考えればそんなひどいことを口には出来ないはずでした。それを私は言ってしまいました。兄を悲しませるつもりはなかったと、兄のことは子供の頃から尊敬もし、信頼もしていたといくら言っても言い訳にもなりません。それこそ母が知ったらいちばん悲しみそうです。兄に、ここに心から謝ります。「兄貴、ごめんな!」

 

 

1998年11月に母が亡くなってから、今年は7回忌を迎えます。丸5年を過ぎて6年目に入った今も、こうして思い出しているだけで涙が流れます。愛する人の死は、年月が癒すというものではないのでしょう。反って鮮やかにその存在が蘇って、その思いに笑える日もあれば、悲しくて仕方がない日もあります。

母の遺したものの中に一冊の小さなアドレス帳があります。何度目かの入院の際、数少ない友人の住所と電話番号を控えて、母が手元に持っていたものでした。母の亡くなった後、持ち物を整理していて見つけましたが、そのアドレス帳に使われなかったたくさんのテレフォンカードと共に、裏表紙に『えんぴつ1本ください』という走り書きがありました。

長くなる入院生活に、友人に電話をして気分転換をしようと目論んだものの、手術で口蓋をえぐられた為にもはや話すこともままならず、諦めて筆談のためのえんぴつを病院の売店に買いに行ったと思われます。右肩上がりの、紛れもない母の懐かしい字でしたが、それを書いた母の気持ちを思い、涙で滲んで見えなくなりました。それ以後、そのアドレス帳は開かれずに手元にありますが、またあの字を見ることはまだ出来ません。

母の使っていた台所の壁に母の走り書きのメモが止めてありました。

「昨日は思い出の為に、明日は夢見る為に、今日は今ここにあるその時を楽しむために」

と書いてありました。読書が好きだった母が、何かの文献で気に留まった言葉を記したのでしょうか。

母が亡くなってから今日までの日々、折に触れ、その言葉の意味を考えてきましたが、まだ答えは出ていません。その言葉を母がどういう思いで受け止めたのか今では知る由もありませんが、母が何かを感じたに違いないその言葉を模索しながら、これからの日々を暮らしていきたいと思っています。

   
 

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