§ おばあちゃん §


祖母が亡くなった。98歳の大往生である。派手なことを嫌った祖母をひっそりと送ってあげたいと叔父叔母にあたる子どもたちとその連れ合いが集まり葬儀が執り行われた。孫である私は長姉であった私の母の代理ということで特別に参列させていただいた。

思えば波乱にとんだ人生を送った祖母である。3歳のときに父母に死に別れ、3人いた姉妹は親類の家にばらばらにもらわれていった。遠い明治のこととて祖母がもらわれていった農家は貧しく、いたいけな3歳の子どもも期待された労働力であった。絵に描いたような継子いじめに遭い、実の子たちがふかふかの布団で眠る傍らの土間で、3歳の祖母はその小さな手で縄を綯い、そしてようやく許された睡眠をうすっぺらな煎餅布団の中で貪った。満足な教育も受けず、大きくなると奉公に出されたという。

神戸の山本通りにあったこのロシア人の家での奉公話を、私は幼い頃よく聞かされた。ある日、広い洋館の一室にお金がどっさり入った財布が落ちていた。女中であった祖母がそれを見つけ、奥様に届けた。どうやら正直さを試されたようで、信頼を得た祖母はその優しいロシア人の家で女中として幸せな日々を送ったそうだ。だからその後、こちらもまた天涯孤独であった祖父に嫁した祖母は、加古川の田舎町に住んでも神戸仕込みのハイカラ婆さんであった。

幼い私が泊まりにいくと朝食にはいつも洋食が出た。田んぼの中の小さな一軒家だというのに、その家には新しもの好きの祖父が揃えた電気製品が溢れていた。両側面を開閉して使う電気トースターでこんがり焼かれた食パンにはバターがたっぷり塗られ、お茶はレモンが添えられたレモンティー、焦げるほど焼かれたハムに、卵はサニーサイドアップである。神戸仕込み、ロシア料理の上手な祖母ではあったが、長男を3歳の時に流行り病で亡くしているのでとにかく食べ物にはしつこいほど火を入れた。それがこの焦げたハムの所以である。

自宅ではごはんと味噌汁の生活であったからこの祖母の家でのお泊りは私にとって初めての異文化体験であった。洗濯は盥に洗濯板の時代に三菱製の大きな攪拌式の電気洗濯機があり、掃除は帚と決まっていたあの時代に布袋のぶら下がった電気掃除機があった。私はもっぱらその掃除機を振り回し、猫を吸い込もうと追い掛け回した。尻尾を捕まれるか掃除機に吸い込まれるか、台風のようないたずらっ子が訪れる日には、哀れなその猫は家出をするようになった。

食べ物にはしつこいほど火をいれるのと同様、お腹を冷やすことには神経質な祖母であった。真夏のお泊りの日にエアコンなどのない時代、木綿の長い腹巻をぐるぐる巻きにされた寝苦しさといったらなかった。しかしぐずぐずと寝返りをうつ孫娘の傍で一晩中うちわを扇いでくれたのもこの祖母である。

母が5歳のときに3歳であった弟と同じ流行り病にかかり、弟だけが亡くなったわけであるから、何かにつけて祖母はその嘆きを母にぶつけたそうである。母が失敗をすると、「馬鹿が残って賢い子が死んだ」と言われたらしい。そういう激しいところのある祖母であった。

奉公をしていた十代に、こつこつと貯めたお金で死に別れた父母の墓を建てたという。そして幼い子どもたちを伴って彼岸の墓参りは欠かさず、参ると墓石を洗いあげ、そしてその墓石にかじりついて泣いた。

「私は死んだらいちばんにおかあちゃんのところに走っていくねん。それで抱きついて『なんでそんなに早くに死んでしもたんや』言うて甘えるねん」

祖母は墓参りの度に幼い子どもたちにそう語ったという。世間に疎い十代で建てたその墓に、果たしてお性根が入っていたかどうかは定かでない。しかし3歳で両親と死に別れ、決して幸せな子ども時代を送ったとはいえない祖母にとって、その墓を守っていくことが生きる支えとなっていたのだろうということは想像に難くない。

長男を亡くした祖母はその後、ふたりの男の子に恵まれた。次男は頭の大きな赤ん坊であった。祖母はその子を長男の生まれ変わりのようにかわいがり、「いちきん、いちきん」と呼んで育てたそうである。6歳の母は友だちと縄跳びをして遊ぶときにもこの頭のでかい赤ん坊を背負わされたらしく、背中で「ぎゃふんぎゃふん」と言うていたそうである。この叔父、長のサラリーマン生活を勤め上げ、悠々自適の定年後を整体師の資格をとって社会に貢献していらっしゃる。よほどその頭の重さが骨身に沁みた半生であったのかと想像する。

祖母は本を読むのが好きで、晩年認知症になるまでは90歳を過ぎてもいつも傍らに本を携えていた。祖父は勉強の好きな人だ。毎年受験シーズンになると新聞に発表される大学入試問題をやっている。そんなふたりが決して裕福ではなかったけれど、教育だけは…と懸命に子どもたちを育てた。皆が曲がることなく立派に育ち、そして孫8人、ひ孫11人とその家系は大きく広がった。

年に一度、夏休みの観音様の日には一族が集った。母や叔母や叔父の子どもの頃の話に耳を傾け、叔母が「きゃっきゃ」と笑い、母は「くっく」と笑う。そしてお決まりの叔父の「スイカ頭」や「脱腸話」で落ちがつく。祖母はそんな様子を見ながらひとり台所に立ち、つぎつぎと美味しい料理を供してくれた。私は子どもの頃からそんな夏をいくつも数え、そして大人になって嫁いでからも、祖母はダンボールいっぱいの野菜を送ってくれた。箱を開けると手作りの不細工な野菜がいっぱい詰まっていた。必ず自家製の切干大根が入っていて、庭先で大根を干す祖母の姿が思い出された。曲がったきゅうりも二股の大根も、葱いっぽんまでも大事にいただいたものだ。

あれやこれやの思い出話を皆が持ち寄り、通夜と葬儀の日の二日間を泣いたり笑ったりしながら過ごした。わずか8人の家族葬ではあったけれど、皆が温かい気持ちで祖母を送ることが出来た。棺に納まった祖母は98歳とは思えぬ美しさで、いつも野良仕事をして色黒だと思っていた肌は雪のように白く、そして冷たかった。

「おばあちゃんとってもきれいやね、おじいちゃん惚れなおした?」

肩を落とす祖父にそう声をかけると、泣き腫らした目で少し照れた。そして最後の花束を棺に手向け、「ありがとうおます…」と妻に言葉を贈った。

8年前に母が67歳で亡くなった時、意識が途切れるその前に「おかあさんに会いたい…」とつぶやいた。私にとって祖母は生まれた時から「おばあちゃん」であったから、母が自分の母親のことを「おかあさん」と呼ぶのを聞いたことがなかった。今わの際のその言葉に引き寄せられるかのように病室を訪れた祖母は意識のない母に抱きついて「まだ温い…まだ温い…」と泣き崩れた。祖母が自ら建てた墓に抱きついて「おかあちゃん」と呼んだその人と、母が「おかあさん」と呼んだこの祖母と、今それぞれがあの世で懐かしい再会を果たしているのだろうか。歴史に消えていく女系の流れに思いを馳せながら、私は今、病む娘をしっかりと抱きしめている。

 

大好きな母の家族については「母の背に あとがきに代えて」を合わせてご一読ください



 

 

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