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総勢19名の大宴会
高27回美女4人
どれが上級生だか下級生だか…

どれが先生だか生徒だか…
気分は高校生(実は50過ぎ)
豪傑N人氏(なんか文句あるんかい!)
押し寄せる美女軍団に先生赤面(かわゆい)
当時の憧れの彼女とデュエットでご満悦の「ボク」
だいたい先生がやねえ…(高27回トーソン)
 
当時の夏合宿(たぶん山陰地方)
 
高26回生(右端がキャンバスの裏を描いたTちゃん)
 
↑↓化学の実験衣は我らのユニフォーム
 
 
高26回生(元気な頃のKちゃんJちゃんも)

33年ぶりの再会にて悲しい訃報にあいました
Jちゃんのご冥福を心よりお祈りいたします

高26回の仲間にKちゃんがいました
ビンクスでエッセー#016「桜の頃」をご一読ください

 

 

 

 


 

§ 加古川東高校 美術部同窓会 §


最近歳のせいか涙もろくなった。膀胱炎を患った愛猫が、ちゃんとおしっこをしていることに涙する。毎朝ヨーグルトを失敬していく猫の健康なころころウンコを見ても涙が出る。昨年初めて買った母校の同窓会名簿をぱらぱら繰りながら、懐かしい名前を見つけては涙する始末であった。で、ふと思いついた。

「そや、同窓会をしよう!」早速後輩に連絡、

「美術部同窓会をしたいから手配しいや」

因みにこの後輩、高校在学中の一学年下の男子である。彼が入部したての頃その名前がまだ覚えられず、我ら上級生の女子たちが「ボク」と呼んだのがきっかけで爾来彼のニックネームは「ボク」となった。

「ボク」は当時からよく働いた。上級生が怖かったのかどうかは知らないが、上級生は「ボク」をかわいがった。文化祭の作品作り、材料の買出しには一番に走らせた。上級生が飲む清涼飲料水も彼が買いに走った。当時まだ「パシリ」という言葉はなかったけれど、「走ること」を嫌がらずによく上級生に尽してくれた。ときどき喰わせた美政食堂のやきめしや翁介のラーメンの威力は甚大であった。

ご本人は今や大手企業の偉いさん、自宅から遠く離れた地で単身赴任の身にもかかわらず先輩のリクエストにまさに東奔西走の活躍を見せてくれた。「勝手な思いつき」の翌日には「懐かしいから集まりましょう会」という案内状を作成し名簿を頼りに4学年に亘る部員に発送、場所探しにはわざわざ現地視察まで行って報告してくれた。

「ただいま現地視察中でおます。ここはァ活魚料理が美味くてよろしいかと…。二階に座敷がありましてェ、万が一人数が増えましても入れそうですしィ…」

「おうし、まかせた!会費は6000円、美味い料理に飲み放題、しっかり交渉しいや」

現地視察、試食、試飲のため呂律のあやしくなった50のおっさんに上級生のおばはんが厚かましい指令を飛ばす。その後「ボク」がお店の大将とどんな四苦八苦の交渉をしたのかは知らない。

皆に声をかけるにあたってひとつ危惧があった。当時の美術部顧問、仁先生にお声をかけたいがどうしたものか。ご自宅に電話をかけてもしお亡くなりになってたりしたら怖いなあ…というのが正直なところであった。

なにしろ卒業してから33年ぶりである。当時の先生の確かな年齢は存じ上げないが20代ではなかったように思う。30代でもなかろう。髪のご様子からみて40代ではなかったかというのが大方の意見である。とすると少なく見積もっても70過ぎ、もしかしたらもしかする年齢ではないか。「ご出席いただけるならご一報を…」と案内状を発送したもののお返事がない。ここはやはり言い出しっぺの私が連絡すべきかと勇気を振り絞ってご自宅に電話をいれた。
以下( )内は心の声。

るるる…るるる…

「はい、○○でございます」と若い女性の声(誰や?奥さん?ありえん!)

「あのぉ、わたくし加古川東高校美術部でお世話になったものですが…」

「あぁ、先日同窓会のご案内をくださった方ですね。是非出席のお返事を出したらと申しておりましたのよ。本人がおりますからちょっとお待ちください」(70代の先生の嫁にしては若すぎる…ありえん)

と奥へ「あなたァあなたァ…」と呼びに走る声。(『あなたァ』って、やはり嫁か?ありえん)

しばらくして

「ああ、○○です」と若い男性の声(!)(70歳を越えとるはず…ありえん)

「仁先生…でいらっしゃいますか?」

「ああお久しぶり、先日はご案内ありがとう」(声に張りがありすぎる…ありえん)

33年ぶりに拝聴するお声はあまりにも若々しく「ありえん」想いいっぱいのやりとりと相成った。そして

「おおい、16日の土曜日はなにか予定があったかなあ…」という愛に溢れた奥様への確認の言葉を耳にしながら、めでたく当日ご参加のお返事をいただいた。

顧問の先生に出席いただけるとなると俄然活気づく。早速「仁先生ゲット!」の連絡を「ボク」に入れる。翌日会場地図を詳しく記した最終案内状が「ボク」から送られてきた。皆さんへ「仁先生ご参加」の報告とともに発送。というわけで私は「勝手な思いつき」のあとは名簿を頼りに皆の住所を拾ったのと架電数本、「ボク」作成の文書を皆さんへ発送と、要するにPCの前から動かずまさしく居ながらにして同窓会当日を迎えることができた。持つべきは仕事の出来る後輩である。

そんな「ボク」が孤軍奮闘の末、交渉した会場は加古川駅近くの「うまいもんやあんちゃん」である。活魚料理が売りのお店の広い2階の座敷を占領する。実に集まってくれた部員は18名、先生を迎えて総勢19名の大宴会となった。

宴会開始時間をめがけて集まってくる部員たちが入り口で顔を合わすたび、大歓声が起こる。会った瞬間から当時のニックネームやファーストネームで呼び合い、1歩離れてお互いの変わり果てた姿を確認する。余分な肉をつけシワを刻み、そしてあるものは頭髪もあやしくなった。そんな姿を眺め合い大笑いの後、また止め処のない会話が交わされる。

お互い誰が誰だかわかるまいと用意した名札もまったく不要であった。姿かたちは変わり果てていようとも目を見れば解った。喋れば解った。進学校と呼ばれた高校で競争の場の教室を離れ、心の鬱憤を抱えて集まった部室で交わした本音のやりとりは、長い時を越えて皆を引き合わせた。上級生も下級生も絵を描くこと以上に語り合い、あの青春の日々を共有してきたのだろう。33年の時を越えてまたこのひと時を迎えることが出来るのは、絵を描くことに拘らずにそういう自由な日々の在りようを私たちにゆるしてくださった仁先生のお蔭にほかならない。

実際同学年のU君と私は美術室で歌ばかり歌っていた。Iネエは爪を磨き、K策はタバコとエロ本を持ち込んだ。実にN人にいたっては在部中、1枚も絵を描かなかったという豪傑である。しかしそんな我々を慕って入部したという下級生の動機を聞くと、「先輩たちの歌が素晴らしかったから」というのには恐れ入った。決してフォークソング部ではない、歴とした美術部ではあったのだけれど…。

そんな私たちが描いた数少ない絵を、先生が覚えていてくださったことには大感激である。

「君はきれいな線を描いてたなあ…」

「キャンバスの裏を描いてたなあ…ハエを一匹とまらせて」アメリカ在住で残念ながら今回参加できなかったTちゃんの絵である。

先生の在職中に関わった生徒数を思えば33年前の学生の描いた絵を覚えていてくださることはほとんど奇跡に近い。それぞれがその作品を手元に残しているかは解らないが、皆の記憶の中に確かにそれは存在する。皆の記憶を持ち寄りながら、美術室で過ごしたあのピュアな日々をもう一度体験した思いであった。
(Tちゃんの「キャンバスの裏の絵」についてはニューヨーク便り#47「グッゲンハイム美術館」を合わせてご一読ください)

きっかけはほんの思いつきであったけれど、そんな思いつきに賛同し集まってくださった皆さんに感謝申し上げる。この日のお蔭ですでに忘れかけていた自分自身の再発見が出来たような気がする。あの頃持っていた夢や希望や感性の鋭利さをいつのまにかすり減らし、惰性で流れる日々を歳のせいにしてはいなかったか。人生の余生といわれる日々に向けて、夢や希望を持ち続けたいと思えた再会であった。

にしても仁先生はお世辞抜きでお若い。お顔の色艶はぺかぺか、お声の張りもあって集合写真を見ても先生だか生徒だか判らないほどである。

何故か?

書かれると困るなあ…とおっしゃりながら話してくださった先生の事情をばらす。最初の奥様を亡くされた仁先生は再婚され、現在は第二の人生を歩んでおられる。私がご自宅に電話した時に出られた方は先生よりもうんと若〜い奥様だそうである。恐る恐る先生の年齢を伺うと御年69歳ということであった。なんと私たちが高校生のときは30代であったのだ。おぐしのご様子から40代だなんて誰が言ったんだか、私は知らないっと。


 

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