title
home ny便り products BIN KUSUYA BBS LINK

 

 

 
新幹線車中で
 
広島市の橋の上で
 

 

 

 


        
        
          § キャシーさん §


フロリダでお世話になったキャシーさんと3年ぶりに再会した。78歳になるキャシーさん84歳のお兄さんキャンビー・ジョーンズさんとふたりで、原爆60周年の記念式典出席のために来日されたのだ。

キャシーさんたちのお父さんは、第二次世界大戦中にアメリカの大学が日系の学生の受け入れを拒否した中で、彼らを受け入れた数少ない大学の学長だったそうだ。キャンビーさんご自身もベトナム戦争中、全米で唯一の広島、長崎資料センターを学内に設けた方だという。そしてこの度、広島で平和活動されていた米国人バーバラ・レイノルズさんとの働きに、広島の人たちの招待を受けて式典に出席されるという。

私はフロリダッた方だという。そしてこの度、広島で平和活動されていた米国人バーバラ・レイノルズさんとの働きに、広島の人たちの招待を受けて式典に出席されるという。

私はフロリダで合唱団に所属した。英語は自由に話せない。しかし音楽なら万国共通のはず…と合唱団のオーディションを受けた。試験官である指揮者に英語で何やら言われたが、何をしろと言われているのかさっぱり解からない。しかし楽譜と楽器はありがたかった。指し示される音符を読み、弾かれるメロディーを歌い、運よくパスした。そうして参加した合唱団、同じアルトのパートでキャシーさんと出会った。

キャシーさんのお母さんは若かりし頃、英語と宣教を兼ねて日本の学校で教鞭を執られていたという。そのため、キャシーさんは日本に縁のある思い出の品をたくさん持っておられた。言葉が思うように話せない私を気遣って、そういう品々を持参しては私と共通の話題を探そうと腐心してくださった。

おそらくキャシーさんのお母さんも、言葉の違う日本で相当な苦労をされたのだろう。異国で暮らすことの難しさをそんなお母さんから伝え聞いていたのかもしれない。相手の立場になってその痛みを理解してくれようとする姿勢は、私の大きな助けとなった。望んで来たわけではなかった場所でなんとか毎日の生活を模索しなければならなかった私にとって、そういうキャシーさんの思いやりは言葉が通じなくてもさらさらと心に沁み渡った。

キャシーさんとお兄さんを新大阪駅に出迎えた。すでに来日して1週間、東京、水戸と訪問を済ませたあとの広島行きである。高齢でもありかなりお疲れだと東京でお世話K問を済ませたあとの広島行きである。高齢でもありかなりお疲れだと東京でお世話をされた方から聞いていたので、顔を見るまで心配した。しかし、ホームでキャシーさんたちと出会い、一緒に出迎えた娘や息子と代わる代わる抱き合ったとたん、フロリダでの情景が一気に蘇った。

ローリンズカレッジのチャペルで歌ったハイドンの「クリエイション」、オルフの「カルミナ・ブラーナ」のメロディーが頭の中を駆け巡る。英語もろくに話せないのにラテン語、ドイツ語、フランス語の歌詞なんて読みもくだらなかった。それをキャシーさんが口写しにひとことひとこと教えてくださり、私はラテン語もドイツ語もフランス語もカタカナで歌った。

新幹線の車中、席が離れていたので代わる代わる席替えをしながらおしゃべりを楽しんだ。と言いたいところだが、楽しめたのは娘と息子だけ。帰国して10ヶ月になる私はもうまったく耳も思考回路も日本語モードに切り替わっており、実は久しぶりの英会話にドキドキして出かけたのだ。しかしキャシーさんは心得たもの、相変わらずの私の英語にやはり今日もゆっくりと一語一語区切りながら話しかけてくださった。お蔭で問題なく意思疎通も図れ、懐かしいひとたちの近況も伺うことが出来た。

ところで英語を覚えるとき、よく似た日本語に置き換えて覚える方法がある。「Ohio」は「おはよう」「What time is it now?」は「掘ったイモいじくるな」と覚える。同様にアメリカ人にも似たようなやり方があるのだそうで「どういたしまして」を覚えるには「Do you touch your mustache?」だという。これもフロリダでキャシーさんに教えていただいたことのひとつである。

広島駅に到着、タクシーに乗り換えてホテルを目指す。路面電車や平和公園を車窓に見ながらタクシーの運転手さんに原爆についての話を伺った。

原爆投下の日、市街地で酷い火傷を負った運転手さんの叔母さんは、長い捜索のあと郊外に住んでいた家族によって大八車で助け出された。しかし町は壊滅状態、治療を受ける病院もなくその傷の治療には庭の柿の木の渋が塗られたそうだ。

ホテルにチェックインしたあと、今日の目的地へと案内しながら、60年前の暑い夏の日に原爆に焼かれ、水を求めて息絶えた人たちでいっぱいになったという川に架かる橋をキャシーさんたちと渡った。

後日テレビの原爆記念番組であるインタビューを見た。原子爆弾エノラ・ゲイを作り、広島に投下し、そしてその後の町の様子をカメラに収めたというアメリカの元軍人であった。戦後初めて日本を訪れた彼は、原爆資料館で原爆が落とされた後の町や人の様子を数々の資料で見た。そして被爆者の代表と対談した。

子どもの頃に被爆し、その後60年という月日をその後遺症に苦しんできた二人が彼に言う。

「原爆に苦しみ先に死んだ人たちに天国で会った時、今日のこの対面を伝える義務が私たちにはあります。だからどうか原爆を投下したことは間違いであったと謝罪してください」と。

しかし老いた元軍人は固い表情でその言葉に答えた。

「君らは生きているからまだよいではないか。謝るのはそちらだ。私はあまりにも多くの友人をパールハーバーで失った。アメリカには『リメンバー・パールハーバー』という諺がある。私は決して謝るつもりはない」と。

戦争という状況の下、人の所業とも思えぬことを人がやったという現実が、確かに歴史の中に存在する。世界中のあらゆる国々で人々は敵味方に分かれて殺しあってきた。

例えば誰もいない広い海の上に浮かぶ孤島で、肌の色も言葉も違うふたりが出会ったとする。ふたりは自分だけが生き延びるために、その手にもった魚を獲るための矢尻を、相手に向かって突き出すのだろうか。木の実を落とすために手にしていた石礫を、相手に向かって投げつけるのだろうか。

人は「個」において善良であると信じたい。お互い手にした生きるための「道具」を、決して「武器」にはしないと信じたい。しかし戦争という状況下で悪魔のような所業をなし得るのもまた人である。それが「個」ではなく、「軍隊」あるいは「国」という「集合」になったときであるということが怖ろしい。

かつて日本で起こった海難事故を思い出す。1988年7月、海上自衛隊の潜水艦「なだしお」と遊漁船「第一富士丸」が横須賀港沖で衝突した。 「第一富士丸」は衝突から2分後に沈没し、乗客39乗員9のうち30名が死亡、17名が重軽傷を負った。事故の主因は「なだしお」の回避の遅れだったそうである。

その事故で、「なだしお」の艦上にいた海上自衛隊員は海に投げ出された「第一富士丸」の乗客を、救助もせずにただ見ていただけだったらしい。その理由は「命令がなかったから」だという。

「命令」がなければ目の前で溺れる人さえ助けない。「命令」があれば原爆投下のボタンを躊躇なく押す。それを成しえた彼らは果たして「個」としてどういう考えを持っていたのだろう。彼らの取った行動と相反する「正しい判断」をその時彼らがしていたとしたら、その判断が反映しない「組織」とはいったいなんなのだろう。そして彼らは鬼でもない悪魔でもない、やはり紛れもない「人」である。

第二次世界大戦のさなか、アメリカの多くの大学が日系の学生の受け入れを拒否した中で、彼らを受け入れた数少ない大学の学長だったというキャシーさんのお父さん。大学や国という「組織」の中において主張した彼の「個」としての判断に、心からの拍手を送りたい。彼の遺志を継ぎ、老いてなお平和運動に奔走するキャシーさんとキャンビーさんと、エノラ・ゲイを作り、投下し、なお「リメンバー・パールハーバー」といい続ける元軍人の老人と、この暑い夏に私が出会った人たちは、同じ時代を生きる同じアメリカ人である。









 

Back << PageTop >> Next