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iv align="center">☆看板越しに望む…
☆カーソルを近づけると写真が替わります
 
Z4とG3
 
残るポストも古い…
☆川原町の古い町並み
 
金華山頂の岐阜城
☆通り庭を利用した厨房
中は落ち着いた喫茶店
☆蔵の扉を開ければ…
小さな鵜匠、ヒロキくん
☆鵜飼についてのレクチャーをする杉山さん
 
乗り合いでこんなかんじ
☆鵜飼観賞舟
 
こちらは鮎の塩焼き
☆鵜飼弁当
観賞舟から身を乗り出して…

☆火の粉を撒き散らす篝火

 
☆6艘横隊の「総がらみ」

 

 

 


        
        
          § いちびり鵜飼を観る §


「いちびり」。関西弁で「お調子者。調子に乗ってはしゃぐ人。格好つけ」という意味である。動詞になると「いちびる」。例文を示すと「自分、なにいちびっとんねん。ええかんげんにしいや」、標準語に解すると「君なにを調子に乗ってはしゃいでいるのですか、いい加減にしなさいよ」となる。

子供の頃から総じて「頑固者」「怖い」というイメージを持ってきた父に、少々「いちびり」の傾向があったというのは「九州旅行記その弐」にも書いたが、こと乗り物に対してこの傾向は特に顕著であったように思う。自転車を駆って町を走り回ることはもちろん、時々は単車にも乗せられた。

座席の前の大きな燃料タンク(だと思う)の上に小さな私を乗せて、爆音と共に町を走った。「ここをしっかり持っときよ」と父に言われてハンドルの中央付近をしっかり握るのだが、走るうちにタンクが熱くなってきて、ときどき小さなお尻を浮かせたりしていたから、子を持つ親としてこれはかなり無謀かつ危険な行為であったかと思う。

四輪駆動の車は階段でも砂地でもモリモリ走るんや」と目を輝かせながら、友人から借りてきたジープに子どもを乗せて、父はわざわざ海岸へ出かけた。けっしてすわり心地のよいとは言えぬ荷台に横向きに座らされた私は、やはり「ここをしっかり持っときよ」という父の言葉に従って車の構造体に掴まりながら、砂ぼこりと潮風にまみれてジープの激走に耐えていた。

今思うと父も若い父親であった。若くして妻あり子ありの生活を、勤勉という矜持だけで支えていた。だから休みの日には、自身の楽しみもゆっくりと味わいたかったのだろうと思う。しかし、そこは母もしっかりと押さえていた。若い父が暴走せぬよう、ちゃっかり子どもを携帯させたのである。子どもを携帯しながら、それでも父はしっかりジープで砂浜を暴走したのだから、どっちもどっち、若い夫婦の攻防を垣間見る思いである。

兄が大学生の時にゲットしたフェアレディZも、案外父の「いちびり」の所以であったかもしれない。兄にせがまれて…という体裁はとったものの、本当は非実用的なツーシーターのスポーツカーは父の好みで選んだものと思われる。それを証拠に時々、兄の京都の下宿を訪れては兄のフェアレディZに乗り換え、母を助手席に、そして兄をトランクに押し込んで京都の町を走り回った。

さて、そんな父が、最近またやってしまった。齢78にしてツーシーターのスポーツカーをゲットしたのである。しかも今度はドイツ車、BMWのZ4。プルトップのシーチキン缶を開けるがごとく、ボタンひとつでパッカンとオープンカーになるという代物である。

顧みるに、これには予兆があった。私たち家族がフロリダに居た頃、父が日本から遊びにきて1ヶ月半滞在したことがある。当時娘がお世話になっていた家庭教師のアメリカ人女性がBMWのオープンカーに乗って我が家に通ってきていた。英語が喋れないのでアメリカ人と接触することを極力避けていた父であったのに、その時だけは違った。彼女のオープンカーに進んで同乗させていただき、燦々と照りつける太陽の下、フロリダの町を一回りした。その時、長年忘れていた父の「いちびり」に、再び種火が点されたのかもしれない。

今回車が欲しいと言い出してあらゆるところを見て回った。もちろんセダン型も見た。居住性、実用性からいったんセダン型に決まりかけたものの、それでも愚図愚図迷う父に、「一体お父さんのいちばん乗りたいのは何?」と問うた。で、返ってきたのは「ツーシーター…」という蚊の鳴くような声の答えであった。

もうすぐ傘寿を迎える老人が…という世間体も考えたのだろう。この度も「孫にせがまれて…」という体裁をとってはいるが、Z4を乗り回す表情は得意満面、嬉々として明るい。歳が歳であるので、車高の低いその車への乗り降りには難儀している。しかしいったん乗り込むと気分だけは往年の勢いを取り戻し、マニュアルモードを駆使してエンジンブレーキなどを利かせながら、滑らかな運転を誇示してみせる。

そんな父と先日、そのZ4を駆って旅行に出かけた。前回の九州旅行は鉄道を利用したが、今回は車を運転することが目的である。で、距離と季節を考え、長良川の鵜飼観賞を選んだ。

梅雨だというのに出発したその日はきっぱりと晴れ渡ったお天気。早速「いちびり」の本領発揮である。オープンカーにして高速道路を突っ走る。しかし暑い。車とお揃いのようにパッカンと禿げ上がった父の頭にも、容赦なく太陽は照りつける。車がZ4なら、父はG3(爺さん)だ。いかん、こう暑いとシャレもスベる。で、我慢できずにサービスエリアに入ってそそくさと天井を閉める。「いちびり」父娘の目論見は外れた

神戸市西区を出発、阪神高速北神戸線からつながった中国自動車道、名神高速道路を経て岐阜羽島インターを降りる。そこから北へ40分ほど走るとお目当ての長良川河畔に到着である。宿泊するホテル「十八楼」に荷物を預け、夕方の鵜飼にはまだ時間があるので、江戸時代の町並みが残るという川原町の散策に出かけた。

16世紀中ごろ、斎藤道三、織田信長の頃から、この辺りは中川原、明治時代には富茂登(ふもと)村と呼ばれ、市場が開かれ商業の拠点として繁栄していたそうである。道三は城下町を作るにあたり、ここから上にかけての場所に川湊を設け、長良川の上流域で豊富に産する美濃紙、木材、茶などや、当時のブランド品であった関の刃物を、ここを中継地にして全国各地に売りさばいていたという。

江戸時代になると尾張藩がここを治め、長良川役所が置かれ、川を下る荷船から船役銀(通行税)を徴収したという。荷の種類は竹皮、酒、灰、炭、紙、木、茶、米と多様で、この界隈にはそれらを取り扱う紙問屋、材木問屋などが軒を連ねていたらしい。そんな中の一軒、明治時代にかつては紙問屋だった町家を改装した喫茶店があると聞いて覗いてみた。

「川原町屋」というそのお店、間口三間(約5,4m)ほどの小さな玄関を入ると、はるか奥へと土間に打たれたレール跡が残る。かつて湊に着いた紙を店に運び、トロッコに載せて店の奥まで運んだのだそうだ。間口が狭いのは、当時建物の間口の大きさに比例して課税されたためで、いわゆる「うなぎの寝床」である。玄関の土間を見上げると太い梁がむき出しになっていて、吹き抜けの屋根に切られた天窓から明りが降り注ぐ。歴史を感じる座敷、狭いながらも苔むした中庭、土間を利用して作られた厨房など、かつて暮らした高砂の町の家屋を見るようで、懐かしさいっぱいに見てまわった。

うなぎの寝床のいちばん奥に蔵を改造した喫茶室があった。外は暑い夏の日であるというのに、蔵の中はひんやりして心地よい。裏へ廻ると金華山頂に岐阜城が望め、しばし天下取りを夢見た人たちに思いを馳せた。

宿に戻ってひとっ風呂浴びたあと、いよいよ鵜飼観賞に出かけた。ホテルの地下への通路を抜けるとそこはもう長良川の川べり、鵜飼観賞舟が夕日に染まって並ぶ。その川べりで、まず鵜匠の杉山雅彦さんによるレクチャーを聴いた。

鵜飼は鵜を使って魚を獲る漁法で、長良川ではおよそ1300年の歴史があるそうだ。昔は時の権力者に保護され、川のいろいろな権限を与えられた21人の鵜匠がいたが、明治維新になると特別な保護もなくなったために鵜匠の数は減ったという。明治23年からは宮内庁に属し、長良川の鵜飼観賞は宮内庁の夏の接待場であるらしい。現在岐阜市に6人いるという彼らの正式職名は「宮内庁式部職鵜匠」というそうで、歴とした宮内庁職員、世襲で受け継がれているのだそうだ。

鵜匠の装束は昔のままだという。まず「風折烏帽子(かざおりえぼし)」。黒または紺色の麻布で、頭にまきつけて篝火から頭毛を守る。「漁服」は黒または紺色の木綿、その上を、火の粉や松脂を避けポケットにもなる「胸当て」で覆う。藁で出来た「腰蓑」を着けて水しぶきを払い、身体が冷えるのを防ぐ。足には「足半(あしなか)」と呼ばれる普通のワラジ半分ほどの大きさのものを履き、魚の脂や水垢で滑らないよう俊敏に動きが取れるようにしているそうだ。

漁には、茨城県石浜海岸で捕獲した野生の鵜が使われる。その鵜を5年かけて育成する。野生のままだと鵜の平均寿命は6年なのだが、漁に使われるものは人間に世話されるので、20年から25年も生きるそうである。

レクチャーを披露してくださった杉山さんは7歳の息子さんと一緒に漁に出られるという。世襲であるけれども手取り足取り教わるわけではなく、一緒に漁に出て子は親を見てその漁法を学ぶのだそうだ。

さて、鵜飼についての詳しいレクチャーを聴いたあと、いよいよ鵜飼観賞舟に乗り込んだ。長良川を遡り、浅瀬に寄せて船を停める。と、なにやら胸に不快感が…。で、思い出した。

しまった、私は船に酔うのだ!

かつてハネムーンで訪れた夢の島ハワイ。そのロマンティックなサンセットクルーズでゲロってしまった。爾来25年、オエっと吐いては子を二人産み、最近では夫が私を見るだけで吐きそうな顔をしている。

「お父さん、まずい…酔いそうや…」

そう父に伝えると、元海軍の父は即座に答えた。

「酔う前に酔え!」

かくして供された鵜飼弁当のご馳走およびビール、冷酒を牛飲馬食。なるほど、いつしか船が揺れてんだか、自分の体が揺れてんだか判らなくなった。海軍仕込みはよく効く。

宿の気配りで女性客には色浴衣を用意してくださった。薄紫にピンクの花柄の浴衣を選び、浅葱色の帯をきりりと締めて出かけてきた。様子もよろしく鵜飼観賞を…という目論みも吹っ飛び、きりりと締めた帯を少しゆるめて満腹の腹をさすっていると、ドドーンと川上で4発の花火が上がった。鵜飼い漁開始の合図である。

すでに日がとっぷりと暮れた川面を、とも乗り、なか乗りと呼ばれるふたりの船頭さんに操られた鵜舟が下ってくる。舳先には松の篝火が火の粉を撒き散らしながら赤々と燃える。その火の粉を浴びながら、鵜匠は12本もの手縄を携え、鵜たちを操る。

朝から何も与えられていない鵜は空腹のために、潜ってはその鋭いくちばしで魚を捕らえる。鵜の首の皮は弾力性があり、何匹もの魚を飲み込んで喉に溜め込むという。しかし、首結(くびゆい)と呼ばれる縄で首の根元を締められた鵜は、喉に溜めた魚を飲み込めない。頃合いを見て鵜匠は鵜を引き上げ、喉に溜まった魚を吐き出させる。鵜は魚を取るとき、魚の急所を咬むそうで、一瞬にして絞められた魚は鮮度を保つ。だから、鵜の食み跡のある魚は高価なのだそうだ。

一所懸命魚を獲るのに、飲み込む前に吐き出さされる鵜たち…。なんだか可哀想…と思っていると、海軍司令官がおもむろにつぶやいた。

「ワシと一緒や、娘が鵜匠、親父は吐き出すばかりの鵜やなあ…」

死なない程度に首を絞めておいた。

6艘の舟がそれぞれの漁を披露したあと、最後には6艘全部の舟が横隊になって漁を行う「総がらみ」を観賞した。長良川沿いにある建物は、鵜飼の時間、意図的に灯りを落としているのかもしれない。町中とも思えぬ闇がそこにはあった。その闇に6つのかがり火が川面に揺れながら滲んでいく。ホウホウという鵜匠たちのかけ声を聞きながら、はるか1300年前の夜にも吹いていたであろう風を思った。

ところでこの鵜飼の鵜たち、鮎だけを狙うのかと思っていたら、いろんな川魚を捕まえるのだそうだ。だから時には「うなぎ」だって捕まえる。しかしうなぎはヌルヌルしていて、しかも長い。ゆえに弾力性のある喉を持つ鵜をもってしても、なかなか飲み込めないで難儀するという。鵜が難儀するから、「う、なんぎ」→「うなんぎ」→「うなぎ」と呼ぶようになったという説があるそうだが、これもきっとどこぞの「いちびり」が言ったに違いない。








 

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