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雄大な阿蘇の外輪山


阿蘇くじゅう国立公園長者原

☆由布岳
人力車えびす屋のおにいさん
☆金鱗湖
こちらも名物「やせうま」
☆湯布院名物だんご汁
 
食事処「柴扉洞」
☆山荘「無量塔」玄関
 
広々とした和室
☆離れ「吉」
囲炉裏のある板間
 
温泉の出る内風呂
 
☆右がブランド「関鯖」のお造り
☆料理の数々
 
Tan's Barの巨大スピーカー
ジャズが流れていました
 
Tan's Bar 朝は喫茶室になります
 
☆辺りの風景
 
支配人の森山美枝さん
心温まるおもてなしを受けました

 

 

「山荘 無量塔」のウェブサイトはこちら


        
        
         § 九州旅行記 その弐 §


出迎えのタクシーに乗り込み阿蘇の外輪山をドライブしながらいよいよ大分県は湯布院へ到着した

由布院は周りを1000m級の山々に囲まれた盆地である。町の北東端には豊後富士と称えられる秀峰由布岳(ゆふだけ)(1584m)がそびる。「由布院」と「湯布院」、読みは同じでも表記が違う、はて…と思っていたら土地のことにとても詳しいタクシーの運転手さんが教えてくださった。

奈良時代に編纂された豊後国風土記には「柚富郷(ゆふごう)」という記載がある。そしてこの郷ではコウゾである栲(たく)の樹がたくさん茂っており、この栲の樹の皮をとって木綿(ゆふ)が作られたことがその郷名の由来だそうだ。

平安時代には稲などの租税を収蔵する倉院が柚富郷に設置され、以来、ゆふの倉院、ゆふの院、ゆふ院と呼ばれるようになったとか。江戸時代には一時期「油布院」と表記されることもあったが、昭和30年2月に由布院盆地の南にあった湯平村と由布院町が合併した時、湯平の「湯」を取って「湯布院町」となったらしい。

盆地のどこを掘っても温泉が湧くという湯布院には湖底から温泉が湧き出ているという金鱗湖がある。金鱗湖とこの湯布院の町は切っても切り離せぬものだそうで、それにまつわる神話を運転手さんが披露してくださった。

なんでも由布院盆地は昔、周囲を山に囲まれた湖であったらしい。ある日、由布岳の化神宇奈岐日女が力自慢の権現に湖堤を蹴り裂くように命じた。湖を干拓して村人たちに肥沃な土地を与えるためである。湖水が流れ出した時、湖から現れた一匹の竜がこの地を護ることと引き換えに自分の住める池を残すことを天祖人神に訴えた。竜の願いは聞き入れられ、それ以後、西半分に温泉が湧き東半分に清水が湧くという不思議な金鱗湖は、地元の人々の生活を護っているのだそうだ。

さて黒川温泉を出発してから湯布院に到着するまで約2時間、タクシーの運転手さんはいろいろな面白い話を披露してくださったのに、朝風呂朝食で満腹満足の父は横でひたすら居眠りである。

湯布院の町に到着、さあ着きましたよという間際になってようやく父は『お昼には湯布院名物だんご汁を食べなせえよ』という運転手さんの声にむっくりと覚醒した。食い物の話には居眠っていても敏感である。

冷え込んだ青空を背景にすっくとそびえる由布岳を仰ぎ見て、父と娘はだんご汁を求めて湯布院の町を右往左往、そして飛び込んだ漬けもん屋のおばさんに、商品も買わずに教えていただいたお店へと急行した。登場しただんご汁、野菜たっぷり具だくさんの味噌汁の中に平たいだんごがたくさん入っている。旅館のごちそうもあるので一杯のだんご汁を父と分け合ってふうふう言いながらいただいた。一緒に注文した「やせうま」というお菓子もこの平べったいだんごに黄な粉をまぶしたものでなんだか初めてなのに懐かしい味がした。

「花より団子」の父はまさしくだんごを喰い終えれば町を散策しようと誘ってもなんだか億劫そうである。そこで町を走っていた観光人力車に乗ることにした。父も私もどちらも太めなので小さな人力車にふたりきつきつで座り、赤いひざ掛け毛布をかけてもらう。父の温もりを半身に感じながら、長閑な風景の中を疾駆する車夫の若いおにいさんの話に耳を傾けた。

竜が棲むという金鱗湖、由布院盆地を拓いた宇奈岐日女を祀った宇奈岐日女神社、そして広がる田畑の真ん中に人力車を留め、360度の山の風景を見回しながら盆地にいることを実感した。

宇奈岐日女神社前にあった土産物店で父はまたしこたま土産物を買い、そして夕方宿に向かった。

ところでこの父の「土産物買い」、母が存命中はよく諍いの種となった。名所旧跡を訪ねることの好きだった母と、まずは土地の美味いもんを探しに走る父とはよく旅先で喧嘩をして帰ってきた。『お父さんなんかもう知らん』と美しい寺社を見損なった母はおかんむりで、しこたま土産物を抱えた父はなんとなくバツが悪そうであった。だのにまた一緒に旅行にでかける。一体全体仲が良かったのか悪かったのが、未だによく解らない夫婦であった。

さていよいよ、この九州旅行でいちばん楽しみにしていた旅館「山荘 無量塔」である。

山荘というだけあって山の中腹にある。町の喧騒からは離れそして玄関も古い民家の障子戸である。タクシーを降りると作務衣に身を包んだ宿の人たちが出迎えてくれた。「お客様、いらっしゃいませ」ではなく「○○様、ようこそお出でくださいました」と名前を呼んでくださる。滞在中宿のどの人も、対応がゆったりと優しい。どこで出会っても親しく応えてくれる。しかし出過ぎない。流行っている宿は忙しいから従業員もどことなくせかせかと仕事をしがちと考えてしまうが、無量塔のひとたちは決してそうではなかった。なんとも居心地のよい時間を過ごさせていただいた。

玄関の暖炉の火のそばで挨拶を交わしたあと、私たちが泊まる離れ屋へと案内された。玄関ロビーのある建物をいったん出るとさらに山を登っていく形で道が続く。その道のあちらこちらに北陸や滋賀から移築された明治時代の古い民家が美しく整えられている。私と父が泊まったのは「吉」という家屋であった。

大きな1軒の家であるがその姿は山の木々に半分姿を隠し、辺りに人の気配を感じない。障子戸の玄関を入り、中に進んで思わず歓声をあげた。父が熱望していた囲炉裏のある居間がそこにあったのだ。勢いのある炭火が赤々と燃え、掛けられた鉄瓶からはシュウシュウと湯気が上がる。囲炉裏を囲んだ板の間の端には水屋が設えてあり、熱いお茶もいつでもいただける。続く和室は二人では広すぎるほどで、さらに奥にクローゼットを備えた和室があった。囲炉裏の板の間からは土間に続いて庭が眺められ、周辺を散策出来るように赤と黒の鼻緒のついた下駄がきちんと揃えられていた。

囲炉裏の居間の反対側にはこれまた一味違った洋風の居間がある。暖炉がありその上には吹き抜けの天井まで届きそうな大きな現代意匠の絵画が掛けられていた。ゆったりとしたソファー、大きなリビングテーブル、その上には上品なお菓子がデザインのよい器に入れてさりげなく置かれている。床はほどよい床暖房が効いていて、随分前から私たちの到着を待っていてくれた気遣いを感じた。

洗面風呂場をチェックして驚いた。黒御影石とヒノキでシンプルにデザインされた大きな内風呂が設えてある。しかも私たちの滞在中ずっと温泉が注がれ続けており、24時間いつでも好きな時に適温の温泉に浸かれるのだ。浴槽はでかかった。入浴時にチェックしたら私の両手を広げても浴槽の縁には届かなかった。もちろん頭だけ出して大の字に伸びても足先は向こう岸には届かない。壁一面がガラス戸で、開け放つと外の庭園の緑を眺めながらまるで露天風呂気分であった。ここでも極楽、極楽…とばかり出たり入ったり潜ったりしていると、あまりに風呂が長いので倒れているのではないかと父が心配して覗きに来たほどである。

これだけ広い家屋、どこにでも寝られそうなのにちゃんと2階に寝室がある。重厚な建物の梁もまたデザインに取り入れられた落ち着いた洋間である。ふかふかの布団がかけられた大きめのベッドがふたつあったが一階の和室に布団を敷いてもらって眠ることにした。夕食をいただいてお湯に浸かって、そしてマッサージをお願いしてそのままうにゃうにゃと眠ろうという目論みである。

さて、家の中を見て回ってあちらこちらを記念撮影して戻ったら、リビングテーブルのお菓子の器はすっかり空である。『おとうさん、これからご馳走をいただくんでしょ!』と咎めたらすごすごと父は風呂場へ消えた。交代で風呂に入り、備え付けの作務衣をまとい、いよいよ夕食である。

山荘 無量塔の料理は創作山里料理である。四季折々の素材を工夫して供される。訪れたその日は冬の献立であった。

先付けは冬の味覚寄席盛り、椀物は甘鯛と椎茸焼霜椀、向付けは自然薯の磯辺巻と関鯖のお造りである。

この関鯖大分県佐賀関町(現在は大分市の一部)で獲れる鯖のブランド品である。なぜその関鯖が素晴らしいかというと、その地理的条件がものをいう。九州と四国の間にある豊後水道は潮の流れが急な所として有名であるが、そこで育った鯖は身が締まって脂ののった上物が多いそうである。だから佐賀関の漁師たちは自分たちの漁場で獲れた鯖にブランド名をつけて全国に売り出しているそうである。

てなことを先の物知りタクシーの運転手さんから聞いていたので心していただいた。なるほど、鯖特有の臭みはまったくなく、身も締まり非常に美味しい。東京では一切れ×千円といわれている代物、まあ二度と口にすることはないだろうとしっかり噛み締めた。

この辺りですでに、大分の地酒をいただきながらいい気分である。父もことのほか上機嫌で「お前は親孝行したぞ」を連発。「何をおっしゃいますやらお父様。こちらこそお供をさせていただいてうれしゅうございますわ、おほほ…」と答えながら父の財布で行く次の温泉はどこにしようかという思いがちらと頭をかすめる。

次はお凌ぎの鮑朧粥である。柔らかい鮑の身とほどよい塩味のお粥が口当たりよく、さらさらとお腹におさまった。

そろそろ満腹…と思っていたら煮物の地鶏鍋が出てきた。風味のある地鶏と豆腐、ネギの鍋物を柚子胡椒でいただく。甘味のある出し汁に柚子胡椒が効いて満腹なのに美味しかった。この後焼物として山女魚の塩燻製と骨煎餅、そして変り鉢として五葷諸味焼きである。山女魚は渓流魚らしく淡白な味わいの身に燻した香りがこうばしい。脂の載った牛肉の美味しいところだけが出てきてきれいさっぱり平らげてしまった。さすがにご飯は無理と思ってはみたが、一口いただくと大分のお米が美味しい。赤だしとお漬物でしっかり一膳いただいてしまう。またしても「ダ〜イエットは明日から〜」というメロディーが頭をよぎった。

父もまた満腹の腹をさすりながら2度目の温泉に浸かり、お待ちかねのマッサージである。ごちそうに膨れ上がった腹をうつ伏せにマッサージを受けて大丈夫かしらんと思ったが、何のことはない、すこぶる快適である。父はすでに目論みどおりマッサージをうけながらうにゃうにゃと眠り始めた。

とあるレストランで「デザートはどちらにいたしましょう?」とケーキ満載のワゴンが来れば「全種類を少しずつ…」と答える主義である。宿に泊まれば備えられた設備はすべてチェックしたい。という訳で、マッサージを受けて心地よい眠りに入りかけた父を叩き起こしてラウンジバーへと向かった。

ところで父にはひとつどうにも直らない弱点がある。方向音痴である。運転免許を持って半世紀以上になるというのに、車はおろか自分の足で歩いても方向を間違える。昔入院した病院で点滴中にトイレへ行ったまま病院内で迷子になり、点滴スタンドをガラガラ押して『ワシの病室どこでっしゃろ…?』と出会った看護士さんに助けを求めたというエピソードは、盆正月の家族の笑いネタである。

そんな父を時々いじる。「はい、お父さん、ここから目的地まで先に歩いて」と言うと、父は今度こそ汚名返上とばかりに乗ってくる。そしてさも確信があるような足取りで進み始めるのだが、途中からその歩幅が短くなり岐路に出くわすと立ち止まってしまう。そして大きな頭を廻らしてしばらく考え、そして決まって反対方向へと進むのである。

その一部始終を後ろからニヤニヤしながら着いていき、間違ったところで「お父さん、こっち、こっち」と呼ぶ。必ず父は「そんなことあるか」と反論してみるのだが、目的地に着いて自分の間違いを認めると「あれぇ」という顔をする。頑固な父のそのバツの悪そうな表情が面白くて時々これをやる。デパートの中であったり、旅先の町であったり。決して「いじめる」のではない、「いじる」のである。「いじめる」ことは陰湿であるが「いじる」ことには白くて時々これをやる。デパートの中であったり、旅先の町であったり。決して「いじめる」のではない、「いじる」のである。「いじめる」ことは陰湿であるが「いじる」ことには愛がある。だから、父は私ばかりでなく孫にもときどきこれをやられてマゴマゴしている。おっといけない、クサいシャレをカマしてしまった。

というわけで離れ屋からラウンジバーへ行く時にもこれをやってみた。案の定父は渡り廊下の岐路で立ち止まり、絵に描いたように反対方向へ進みかける。「お父さん、こっちこっち」「そんなことあるか」をボケと突っ込みのように交わしながら豪華なバーに到着した。

Tan‘s Bar もやはり重厚な造り。巨大な太い梁が高い天井を支える足元には、これまた大きな暖炉に薪の火が赤々と燃えている。正面には巨大なアメリカ ウェスタン エレクトリック社製のスピーカーが備えられている。そこから流れるジャズィーなガーシュインを聞きながらゆったりとしたソファーに身を沈め、父とカクテルを飲んだ。

夜も更けてくるとさすがに山間の宿は冷え込む。部屋に戻って父はまた温泉に浸かって身体を温め、今度こそ心地よい眠りについたようだ。隣の部屋から聞こえてくる父の寝息をバックにTan‘s Barから借りてきたビル・エヴァンスのCDに耳を傾けた。タイトルは昔よく聴いた「Undercurrent」、感情の表面には現れない「暗流」という意味である。

       ☆       ☆       ☆       ☆

父は娘にとっていつもスーパーマンなのかもしれない。

物心ついた時には安息の日々につつまれていた。父が居て母が居て、祖父母にさえ甘えられる環境があたりまえのものだと思っていた。衣服は清潔で餓えることもなく、暖かい部屋で眠った。兄妹喧嘩でさえ年少の妹に、判官びいきの父の採決は下りた。

父はよく働いた。そして休日には子どもたちとよく遊んでくれた。夏の日の夕方、父の帰りを待って自転車で遊ぶことが楽しみであった。大きな荷台のついた自転車を父がまず運転する。私が荷台に立ったまま乗り、父の両耳をつかむ。右耳を引っ張れば右折、左耳を引っ張れば左折、両方を引っ張ればストップである。スピードは大きな声で叫ぶ。暮れなずむ夏の夕暮れの風の中を疾駆しながら『とっきゅう!』『ふつう!』と叫ぶ小さな私は父の背中に張り付き、そして父の大きな片手は耳を引っ張られながら背中の子をしっかりと支えていた。

総じて「怖い」「頑固」というイメージが強い父であるが、少々いちびりの傾向があった。とにかく就学前の娘にとってはスーパーマンである。そう思われていることを多分本人も自覚していたのだと思う。私が望むことにはとにかく挑んでみせた。

自転車を後ろ向きに乗って運転してというとほんとうにそうした。そして3メートルも進まないうちに道路脇の溝に自転車ごと転落して、擦り傷打ち身を母が手当てした。三角倒立で10分立っててとリクエストすると座布団を引っ張り出して果敢に挑んだ。そしてやはり頚椎捻挫を引き起こしその後長く整形外科のお世話に相成った。

そんなスーパーマンがいつ普通の人間に戻ったのだろう。兄と私を同時にぶら下げたその太い腕からは、ある日気がつくと力瘤が消えていた。私が嫁いだその日、父の涙を初めて見た。そして母を亡くして父は身も心も崩れ落ちた。

勤勉を自身の矜持として人の本質を子どもたちに教えてきた父は、なりふり構わず悲しんで人は独りでは生きていけぬことを示した。自分が頑張って築いたと思っていたもの、それは周りの支えがあったからこそ出来たことだと自身で気づいた。親を恃み姉を恃み、そして妻を恃んだ来し方を振り返りつつ、なお子に頼ろうとする自己の愚かさを嘆く。ようやく母の七回忌を終えた今、おそらく初めて父は客観に立っているのだろうと思う。己の悲しみにどっぷりと浸かっていた時には見えなかった我を、悲しみの沼から這い上がった岸辺で見つめているのかもしれない。6年かけて、確かに父は再生した。

北陸から移築され新しいものと融合されて生まれ変わった明治の民家。その離れ屋の一角に切り取られた囲炉裏の埋み火を眺めながら、隣から聞こえる父の静かな寝息を聞いていた。旅先の景色の中で『楽しい、楽しい』と繰り返していた父、来年は傘寿を迎えるその姿にさえ、娘はスーパーマンの面影を探す。




 


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